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ほんばこ 第八回 「外邦図 」



小林 茂 著
中公新書 刊
 
 私は、古地図を眺めるのが好きだ。
 特に、近世大坂の古地図は、手元に十数枚あり、古地図に関する書籍も十冊近く持っている。
現代の地図は便利で、正確で、役に立つが、あまり面白味を感じない。現代の地図は、無いと困るが、古地図は無くても困ることはない。
 古地図は、生活の役には立たない、だけど心を豊かにしてくれるように感じる。そういう意味で古地図は、とても面白い。

 今回、紹介する「外邦図」も古地図の一種である。
 「外邦」とは、辞書的には「外国」のことであるが、この本では「外邦図」を「明治期から大東亜戦争終結まで、日本がアジア太平洋地域について作製した地図」と定義している。
 近代日本は、海外に植民地を持つ「帝国」になるか、あるいは植民地にされるかという事態に直面した際、欧米の「帝国」型国家への道を歩み始める。
 当時の日本にとって、戦争は不可避ともいえる課題であり、それに向けて、自己の領域外、つまり外邦の地図を盛んに作ることになった。
 その盛んに作製された外邦図がどのような手法・組織で作製されたかの歴史的経緯と昭和20年の敗戦時にどのような運命をたどったかが、詳細に記述されている。
 また、欧米諸外国が幕末期から20世紀にかけてどのように世界地図入手・作製してきたかも理解できる。

 ここでは、この本で知りえた日本の「測量技術の沿革」について、記述してみたい。

 1. 伊能の測量技術 日本全図を測量することで最初に作製したのは、江戸時代の伊能忠敬ということは広く知られているが、伊能の測量技術の基本(コンパスと間縄を使用しての作図)は、日本では彼の時代より約140年前の17世紀中頃には確立されていた。
そして、幸運なことに伊能の時代は、真北と磁北がほぼ一致していたので、17世紀に作成された地図よりも、伊能地図の正確さが向上しているようにみえる。(現在の磁北は、真北の西側に振れている。)

  2. 平板測量 明治初期から中期に作製された地図は、基本的に平板測量で行われた。
この測量技術では、広大な地域を測量するのは難しい。小地域の測量を積み上げていくことになり、誤差が累積することになる測量技術であった。
私の手元に明治十八年測量された「枚方」エリアの地形図(複製版)があるが、この地形図の右上に「大阪十八号(仮製地形図)」と印刷されている。
なぜ、「仮製」と記してあるのか疑問をもっていたが、この本で納得できた。
平面測量での地図作製の限界を示すものとして、日本で最初に作製された地形図は、関東地方では「迅速測図」と関西地方では「仮製地形図」と記していたとことであった。

 3. 三角測量 現在の地図作製にも踏襲されている三角測量は、ドイツ留学していた陸軍将校が帰国した1882年以降とされている。この近代的な三角測量の特徴は、各国別々に地図作製を行いつつも、国際的に共通した枠組みを作ろうとして、1884年に万国子午線会議を開催し、イギリス・ロンドンのグリニッジ天文台を通る経線を本子午線(零度)と決定している。
 日本も早速これを取り入れて、三角測量を行って作った最初の地形図に「正式二万分の一地形図」と記し、四隅に、緯度とともにグリニッジからの経度を示している。
 この地図を「正式」といったのは、三角測量を行った世界標準による本格的な近代地形図だという自負があったからと思われる。
 ちなみに、以前体育館に広げられた伊能の大図を観たことがあるが、その地図では京都御所が経線の始まりとされていた。
 現在の地図作製は、空中写真によるものが主流であるが、修正等は三角測量の起点となる三角点を基準に実施されており、地図の細部は、平板測量で作製されている。



石山テクノ建設株式会社 顧問 坂本良高


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